「自らを啓示する神」(へブル1章1節2節) ( 1.15/2023 )
「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」(1節)

神を信じるとはアイデンティティーの問題ではありません。人格的な関係によるものです。神が存在されるから神とお会いするために祈り賛美し礼拝しお従いするのです。しかし、自己中心という罪が人類にはございまして神を認めるということは簡単なことではございません。けれども、神の側から私共に対してご自身を啓示してくださっているということを本日は学びます。

まず、上記のみことばは、決定的に御子によって語られたとあるのですが、御子による啓示は次回にさせていただきまして、「多くの方法で」すなわち自然を通して、「多くの部分に分け」すなわち歴史を通して、そして「預言者たちによって」すなわち人間存在を通してという部分から学びましょう。

1.自然界を通しての啓示

神の御霊が私たちの心に働いているから神が被造物を造られたことがわかるはずです。
ローマ1章20節〜23節
「神の目に見えない性質」神は霊において存在するお方で、見えないということは無いということではなくて、永遠の力と神の神たる御性質を持っておられるということです。
それが被造物によって知られているというのです。
阿蘇に行きましても、反対側の外輪山がきれいに見えますが人間のわざではありません。わたくしが子どもの頃ぼた山が真っ黒でしたが今は木々でおおわれているのとはスケールが違います。
ある科学者が神を信じている学者に対して、「この地球儀よく出来ていますね。誰が作ったのでしょうか。」と問いかけますと、神を信じている学者は「いや自然にわいてきたんだよ」と答えたそうです。神を信じていない学者の方が「そんなわけないでしょう。」と言いますと、神を信じている学者は「あなたの人生は、そのことを雄弁に物語っているのですよ」と言ったそうです。
神を信じず、礼拝もささげないということは創造主に対して失礼なことではないでしょうか。

2.歴史を通しての神の啓示

日本には原爆が落とされたという歴史があります。わたくしの母の叔父も長崎で亡くなりました。強者が弱者をしいたげる。世の中にはよくあることのように思います。けれども、歴史は人が支配しているのではありません。アッシリアもバビロンも滅びました。ベトナム戦争ではアメリカは負けました。
人が怒りという感情を抱くのは自分が他者より偉いと思っている証拠です。もし、神に対して怒りを感じてしまっていたら、今日立ち止まって考えなければならないのではないでしょうか。死の存在に対してもしかりです。しかし、この罪の結果に対しても神(主)は主イエス様の十字架によって解決を与えてくださったのです。

3.人間存在を通しての神の啓示

孔子は生きる道について教えました。釈迦は人生の無常さ、自分の弱さを知り宇宙にはどんなものであってもすがることができる慈悲がある、この中に人は溶け込んで生きることができると説きました。ソクラテスは己自身を知ることが真理だと言いました。
けれども、ソクラテスも釈迦も孔子も私共が道を踏み外して泥沼に沈もうとしている時にご自身を捨てて救ってくれたわけではありません。
「青年よ、かわいそうに。ただあきらめなさい、それはあなたの前世が悪かったのです。諦めることが大切です。」(釈迦)
「青年よ、あなたの歩むべき道はこの道じゃなかったのだ。この道を行かないで、あの道を行けばよかったのだ。」(孔子)
いや、わたくしの親は…、という方もたくさんおられるでしょう。しかし、主イエス様は罪のないご自身を罪人である者たちのために捨てて、神との関係を回復してくださったのです。

切り出された岩と掘り出された穴を思い出して、救いの喜びを返していただいて自由の霊をもって神に仕えましょう。
(参考図書;小林和夫著 栄光の富1)

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