「盲信への神の介入」(創世記22章) ( 5.6/2011 )
中心聖句 「わらべを手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。」(12節a)

神は目で見ることはできません。古代の宗教は目に見えないお方を見るために高い建物を建てて、神の言葉を聞くシャーマンのような人物をそこに置いたりしてきたようです。この22章の目的は長子を人身犠牲として神にささげるカナン宗教的な風習に対して、神が子どもを犠牲にすることをやめさせ、その代わりに動物を犠牲にするように命じたという口頭伝承があったことを伝えていると言われています。

1〜8節 神の試み
9〜14節 主の山に備えあり
15〜19節 祝福の約束
20〜24節 ナホルの系図

信仰の自由(信仰の自由、結社の自由、行為の自由)は法的に認められていますが、それは人に尊厳を与え、安堵感を与え、平和を作り出すものでなければなりません。この22章も、もし神の介入がなく、子どもが親の信仰のために犠牲としてささげられていたならば、それは悲惨な物語で終わってしまいます。しかし、神はそのことを許しませんでした。アブラハムの信仰のために家族を犠牲にすることを終わらせた所に、このテキストの意義があると思われます。

神が認めてくださる宗教心とは、本人が生きることだけでなく、家族や隣人と共に平和や安堵感を得ることであり、それを神は喜ばれると教えているのではないでしょうか。

この物語はアブラハムの信仰から始まっております。当時の因習は、人命を犠牲にするような悪しきものが根底があったことがわかります。けれども、アブラハムはその因習に対しても神への信仰を持ち続けました。それは人々に認められることではなく、さまざまな冷たい言葉をかけられるできごとだったでしょう。これに対し神は、「あなたがわたしの言葉に従ったから」(18節)、とアブラハムを守ります。

当時の社会的習慣としてひとり子を犠牲にする事を思いとどまり、「止めよ」と語られる声に従う事は、アブラハムの神への愛と人への愛の現れでした。愛とは、日本語的表現をすれば、「大事にする」、「大切にする」となるでしょう。私たちの信仰の原点は、神を大切にし、隣人を大切にすることに他なりません。


長子を人身犠牲として神にささげる宗教的習慣
 出エジプト記13:12〜13、申命記12:31 18:10、士師記11:31〜、列王記下3:27、エレミヤ19:5、ミカ 6:5

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