「姦通している女」(ホセア3章1節) ( 1.22/2023 )
「主は私に言われた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」(1節)

ある有名な牧師先生の証の中で、自分が死のうと決心して死にきれずに帰った時、母親が勝手口の前で待っていてくれたというのがありました。神が救いの御手を伸べられるまでには、神はその伏線として神に用いられる方を用意されるのです。ホセアは北イスラエルで紀元前722年のサマリア陥落直後まで預言した預言者です。5節に「終わりの日には、主とそのすばらしさにおののく」とありますが妻ゴメルのためには夫ホセアが、私共のためには主イエス様がいてくださって、今苦しんでいる方も必ず、主とそのすばらしさにおののくのです。

1. 主は姦通している女を選ばれた

ゴメルは夫に愛されていながら姦通している女と説明されています。ヨハネ8章にも姦淫の現場でとらえられた女性が主の救いに与かっています。主が救われるのは罪人です。

2. 主は新しくしてくださる

夫に愛されていながら姦通している女(1節)彼女は罪の奴隷でした。そして、夫によって銀15シェケルと大麦1ホメルと大麦1レテクで買取られないといけないということは自分を贖う力はありませんでした。ところが主はそれを感じさせないような新しい人生に入れてくださるのです。エポデもテラフィムもない(4節)とは家庭の中に偶像がないことを表しています。力強く主を証しできる人にされるのです。主は偶像から救い出してくださるお方なのです。

3. 主は理由(無きに等しい者)を備えてくださる

主は無価値で無力で自制心もないそんな者、それこそ夫ホセア、そして主イエス様と出会う理由なのです。
怒ってしまうとき、ありませんか。愛せないで裁いてしまうとき、ありませんか。すなわち無きに等しい者を主は救ってくださいます。弱い無きに等しい私たちなのですから、3節「わたしもあなたにとどまろう。」と言ってくださる主の御霊に支えていただきましょう。主の御約束を握って祈りましょう。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。」(1テサロニケ5章16節〜22節)ジョン・ウェスレーという方がいつもよろこんでいること、これがきよめられた人の証しですと言ったそうです。笑顔が素敵な人は世の中にたくさんいます。しかし笑顔は作れても、喜びは作れません。喜びは心の状態を表しているからです。

喜びのない方は本当の救いが自分にあるのか、立ち止まって考えてみませんか。救いがもしないとしたら自分が無きに等しい者であることに気づいていないからではないでしょうか。主は無きに等しい者を選ばれるお方です。

姦淫の女は自分の罪を知っているから救われることができる。しかし、自分の罪に気付いていない人は救いに与かることはできないということを教えられるのです。罪に満ちたタンクは喜びに満ちたタンクに変えられるのです。

日ごとに、自我がキリストと共に十字架の上に磔殺されて、聖いキリストの御霊に満たしていただくことがどうしても必要なのです。

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