「希望」(1ペテロ3章15節) ( 2.13/2023 )
「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(15節)

ペテロは主イエス様の一番弟子でした。しかし、死刑宣告を受けようとしている主イエス様を前にして、彼を知らないと言ってしまった人物でもありました(マタイ26章74節)。しかし彼は復活の主イエス様によって変革されて、このペテロ第一の手紙の最後のところ5章5節には「神は高ぶる者には敵対し」と、悔い改めた新しい彼の姿を見ることができます。その鍵となるのが3章15節「希望」であり、キリストであり、彼を心の中で主とすることなのだと伝えています。

内容としましてまして、夫に従うように(1節)、妻を尊敬するように(7節)、謙虚であるように(8節)、祝福で報いるように(9節)、義のために苦しむことがあっても恐れずおびえないように(14節)などいくつかの具体的な勧めがあります。しかしその核心はたった一つ、希望なるお方です。

復活の主イエス様と出会いましたが、聖霊が下る前のペテロはおびえていたのです。戸を閉じて公衆の面前から逃げていたのです(ヨハネ20章26節)。ところが聖霊が下りました時に、彼は変わったのです。使徒の働き3章では「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命じることができるように変えられました。すなわち、彼自身が主イエス様の名によって立たされた、立ち上がらされる経験をしていたということです。

そこで、ペテロを造り変えた、この主イエス様の名とは何なのかを考えてみましょう。それはおびえていたペテロに勇気を与えたものです。彼は復活された主イエス様と出会っても元の自分の仕事に帰ろうとしていた人物でした。すなわち、金銀を稼ぐことこそ我が人生という生き方に戻ってしまった人物でした。

ところが、復活された主イエス様が再び彼に出会ってくださったのです(ヨハネ21章参照)。すなわち、ペテロや弟子たちそして120人の取り巻きの弟子たちが聖霊降臨の時に知ったこと、それは昔共に歩んでくださった主イエス様が現在このところに共にいてくださるということだったのです。すなわち共にいてくださる主イエス様こそ、希望であり、立ち上がらせてくださるところの力だったのです。まさに金銀はないのだけれども、主イエス様が共にいてくださることを知っている。このことがペテロにあるものの全てであったのです(使徒の働き3章6節)。

すなわち、主イエス様が共にいてくださることを解き明かしてくださるお方、悟らせてくださるお方、このお方が聖霊なのです(ヨハネ16章14節)。

この手紙の受け取り手はパウロの伝道によってできた教会でした。おそらくですが、迫害下にあり、指導者を失い不安に陥ってしまった教会に対して、聖霊によって立ち上がらされたペテロは、(復活の主が共におられるのだよ)と希望である復活の主、共にいてくださる主イエス様を証ししているのです(1ペテロ1章3節新しいいのち、18節尊い血、8節9節喜び、2章24節贖い25節罪からの救い、5章5節悔い改め)。そして、いつでも弁明できる用意をしておきなさいと命じているのです。その用意とはナザレのイエス・キリストの名だったのです。

夫に従うこと、妻を尊敬すること、祝福すること、善を行い悪を離れること、そして復活の主をお伝えすること、しかし思うようにいかない信徒たちに、かつて主を否んだ(マタイ26章74節)けれども聖霊によって主イエス様と出会い赦され造り変えられ復活のいのちを知ったペテロが伝えたかった事、それは、主イエス様は今共にいてくださるだけでなくて、彼が共にいてくださるからには私共の人生には必ず変化が起こる(聖霊降臨によって教会が立てられたように迫害下の信徒も立ち上がらせられる)。すなわち、復活され、そして臨在の主イエス様こそが希望であると伝えたかったのではないでしょうか。すなわち準備とは、私共それぞれがまず悔い改め、聖霊によって主イエス様の赦しを知り彼のご臨在をお教えいただき立ち上がらせていただく体験をすることです。皆様にも主の御霊が、主イエス様が現実に共にいてくださることをご開示下さいますように。

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