『栄光に満ちた礼拝堂』(出エジプト記40章33節〜38節) ( 2.19/2023 )
「主がモーセに命じられたとおりである」(32節)

序. 会堂建築がいよいよ始まろうとしています。神の栄光に満ちた礼拝堂とはどのようなものかを見て参りたい。

1. モーセの忠実さ

神の栄光が幕屋に満ちた要因は、民とモーセの忠実さにあった。
「主が命じられたとおりである」と17-33節に7回書かれている。神の天地創造が思い出される。被造物はすべて神の命令に従った。その時、「非常に良かった」と言われた。従わなかったのは人間だけ。しかし、民が主がモーセに命じられたとおりに従い、モーセが主が命じられたとおりに従った時、幕屋に神の栄光が満ちた。人が入る余地がなかった。これが教会。
雲の柱。私達が神の御言葉に従い続けるなら、神の臨在の雲が私たちの荒野の旅路を正しく導く。

従うことは難しい。出エジプトの前半はエキサイティングだが、後半の幕屋造りは単調で読むのが苦痛。人の仕事は簡単に見える。しかし、設計通り行うことは寸分の狂いでも完成に達しない。言葉通り、設計者の思い通りは難しい。しかし、自分の主張を挟まず淡々と従う人は水のように何の用にも間に合う。自己主張したい時もただ神さまを信じ、神さまの言葉に従って行く時、神の栄光に圧倒される。

2.神の人こそ神の幕屋

モーセが神の用に間に合う人に造られるのに80年かかった。神の御手で造られ、神の霊に満たされる神の人こそが実は神が住まわれる聖霊の宮。十字架の血潮で内側を清めていただき、神の霊を悲しませることのないように。悔い改め、内を聖霊に満たしていただこう。主に住まわっていただこう。

結. 神こそがわたしの家

神の家と思って幕屋は建設された。しかし、申命記を見ると、荒野の旅路を振り返った時、気づいたことは、実は神の御手こそが私の家だったということ。パンの机にはひと手幅のふちがある。パンが落ちないため。パンとは十二部族。「立っていても倒れてもそこはあなたの手のひら」(星野富弘)
倒れてもいい。「下には永遠の腕がある」(申命記33:27)
神に持ち運ばれつつ、永遠の住まいを目指して、御言葉に従って歩んでいこう。
(説教者;田代美雪牧師)

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