「回復」(1ペテロ5章10節) ( 3.12/2023 ) |
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(10節) ペテロはキリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者でした(1節)。しかしペテロは以前には苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者というよりは金銀の証人でした。すなわち、彼は主イエス様が十字架につけられ死なれて絶望したとき、祈っていたのではなく漁に出ていました。そんな彼を復活された主イエス様が回復させてくださいました。14節に「キリストにあるすべての者に」とありますが、キリストにある者とは成功者ではなく、弱い者のことであり、信仰がわかっている者というよりはいまだに律法によって救われるかのように思っているかたのことです。しかし、神ご自身が回復させてくださると彼は証ししているのです。 そこで「神の羊の群れを牧しなさい」(2節)。そして、「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい」(9節)という点に絞ってお話しさせていただきたいと思います。 羊を牧するために必要なものは神のみことばです。ダビデはバテシバと姦淫の罪を犯し、後に悔い改めるのですが、未だに多くの人を主イエス様への信仰へと導いている牧者となっています。彼は「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51篇17節)で羊の群れを牧しています。ペテロもヨハネ21章によりますと、「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」で回復されたことを証ししています。回復するには主のみことばが必要です。それを届けるのが牧者の務めであり、クリスチャンは牧者であるようにと勧められています。 また牧者は敵から羊を守る必要があります。主イエス様はご自身を羊飼いと言われましたが、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10章11節)とおっしゃいました。すなわち、敵である悪魔の目的は私共の罪(神への反逆)のためにいのちを捨ててくださった主イエス様から私たちの目を離させようとして働いています。ゆえに、悪魔に対して堅く信仰に立って戦う必要があります。 では堅く信仰に立つとはどいうことなのでしょうか。ペテロはヨハネ21章の復活の主イエス様との出会いの後、どこへ行ったのでしょうか。彼は教会へ行きました。そして何をしたのでしょうか。彼は祈りました。彼だけではなく120人の信仰者たちが祈りました。そして聖霊は下りました。そして説教すると、使徒の働き2章41節によりますと3千人がバプテスマを受け教会に加わりました。そして3章に入って生まれつき足の不自由な人が主イエス様によって立ち上がったとき、彼は躍り上がったと証言されていますが、またペテロが説教すると4章4節では5千人が教会に加わりました。もう8120人の教会です。これは4章10節によりますと主イエス様のみわざです。すなわち、恐れて金銀稼ぎに漁に出ていた漁師が復活された主イエス様によって回復された転換点には何があったのでしょうか。それは聖霊が下ったという出来事でした。聖霊が下ったことはどこで分かるのでしょうか。1ペテロ5章5節、彼が絶対必要なこととして学んだことは、高ぶった者はそれを悟って、主の御前に悔い改めへりくだらなければならないということでした。そして、御霊の最大の職務はヨハネ16章14節「御霊はわたし(主イエス様)の栄光を現されます。」、すなわち主イエス様が生きておられることを証しすることです。聖霊が下ったとき、聖霊によって主イエス様が共にいて生きて働いていてくださることを弟子たちは知ったのです。 さて、信仰に堅く立つとはどういうことなのでしょうか。ヨハネ16章9節「罪についてというのは、彼らが信じないからです。」に注目してみましょう。 ちょっと視野を広げて、 ヨハネ16章8節、聖霊が来られると「罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」この「明らかになさいます」はエレンコスという言葉で、目を開くという意味です。へブル11章1節の「信仰とは・・・」というみことばのところでも用いられている言葉で「見ぬものを真実とする」という意味です。すなわち聖霊は、(はっと)理解させてくださるのです。 ・罪について(ヨハネ16章9節)とは、イエス様を信じないこと。すなわち、主イエス様が私共の罪をすべて負ってくださったことを信じないこと。 ・義について(ヨハネ16章10節)とは、わたしが父のもとに行き、あなたがたはもはわたしを見なくなる。すなわち主イエス様の十字架、復活、昇天によって全人類の罪は赦され、信じる者は救われるということ。そして今も天で祈っていてくださる主イエス様の事実が私共の救いなのですということ。 ・裁きについて(ヨハネ16章11節)とは、世を支配する者が裁かれた。すなわち、サタンは既に神様によって裁かれたということです。(心配しなくていいよ。)と言ってくださるのです。既に主イエス様の十字架によってサタンは屈服させられ、主イエス様の復活によってサタンは主イエス様の御足の下に踏みにじられているよと言っているのです。 結論 「思い煩いを一切神に委ねましょう。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(7節)神の愛のまなざしは常にあなたに注がれています。たとい、倒れたり涙することがあったとしても。 (参考図書;小林和夫著 小林和夫著作集第3巻 いのちのことば社) |
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