「わたしの顔」(ホセア5章15節) ( 3.26/2023 )
「わたしは自分のところに戻っていよう。
彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。
彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」(15節)

ホセア書5章は裁きの書です。
1節、ミツパ(ヨルダン川東方のギルアデの町、士師10章17節)もタボル(エズレルの谷の東の端の小山、聖所があった。士師4章6節)も共に礼拝の場所です。これらの場所で指導者たちは民をバアルに関係する宗教的堕落に追いやって自己の利益を計っていました。
3節のエフライムとはイスラエルで最も力を持った部族ですのでイスラエルの別名です。4節高慢とありますが、彼らは文化的に栄えていたということです。
7節に注目しましょう。他国人の子とは、イスラエルのことをゴメルを例にして語っています。彼らが裏切ったのは主の愛でした。彼らはヤハウェの名のもとにバアルを礼拝していました。彼らの新月祭(大陰暦の毎月1日で安息に地と共に祭儀が行われ、国民の休日でした。アモス8章5節)も的外れの礼拝でした。
8節、ギブアはエルサレムの北方ベニアミンの丘の上の町、ラマはギブアの北にあるベニアミンの町です。
13節は2列王15章19節〜20節、17章3節〜4節(または16章5節〜9節)を指しています。

15節、危機に際して、主の御顔を正しく知ることが大切です。主の御顔を正しく知ることを妨げているのが姦淫の霊です(3節、4節)。この5章では、主のことを12節、シミや腐れで表現しています。それで、それらからアッシリアの力をもってしても癒されない、すなわち、救われることはないと語っています。すなわち、私たちは自分の考えを捨てて主に聞き主の教えを受け入れないといけないのです。

私たちにも日々戦いがございます。そこに主イエス様がよみがえられて生きておられて共にいてくださいますから初めて勝利があります。

弟子たちは、40日間の復活の主の顕現の後、10日間祈り抜きました。そして聖霊が下ったとき、主の勝利が弟子たちの勝利となりました。パウロ先生がガラテヤに伝道したとき、ルステラで受けた迫害のために傷だらけの状態であったと思います。しかし、主イエス様が私共の罪を負って十字架にかかって救いの道を開いてくださった。信じる者の罪は解決されたのだと説教したとき、ガラテヤの人々は救われました。今日もここに主が聖霊によって共にいてくださることが救い、すなわち勝利のしるしであり、豊かさや経済的な安心ではないのです。

ローマ8章37節「しかし、これらすべてのことおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」
どんな困難が襲ってきても私共は神に捨てられたのではありません。神は捨てたもうお方ではないのです。共にいてくださる主イエス様の愛の御顔を正しく知り受け入れることが勝利の秘訣です。

TOP