「目を閉じた世界」(へブル5章7節〜10節) ( 4.2/2023 ) |
「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」(8節〜10節) 本日は受難週礼拝です。主が十字架に向かって歩まれたことを覚える礼拝です。主は十字架に向かわれるとき何をされたのでしょうか。 それは祈りであったとルカは主イエス様の足跡を記録しております(ルカ22章39節〜46節)。 そしてその祈りの結果、第一に主は永遠の救いの源となられました。そして、第二には目を閉じた世界を開いてくださいました。 1.イエス様は源(人生の著者はイエス様) まず第一に永遠の救いの源となられたということですが、源とはどういうニュアンスかと言いますと、責任を負うべきもの、理由、有罪のという意味です。そこで、18世紀のイングランド国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジョン・ウェスレーはこの永遠の救いの源という言葉は英語のオーサー(Author)すなわち、著者になってくださったという意味であると言っているそうです。私共の人生には、こんな試練いらないというそんな苦しみがあると思いますが、著者であるお方がイエス様ですから必ず後には良い展開が準備されているのです。 2.目を閉じた時に開かれる世界 目を閉じた時に開かれる世界は、主イエス様と二人っきりの世界です。すなわち、祈りの世界です。主イエス様は死からよみがえって昇天され神の右に座して神にとりなして下さっているというのが聖書の教えるところです(ローマ8章34節)。目を閉じるならば、そこにあるのは主イエス様だけがおられる世界です。友のおられる世界です。御霊がとりなしてくださる世界です。旧約聖書の詩篇の中で詩篇126篇という祈りの詩篇があります。そこにネゲブという言葉がでてきます。これは荒野のことです。旧約聖書を読む者たちは神に訴えるのです。そしてそこに現れている信仰とは、喜びと笑いです。罪の中にいて喜びがあるでしょうか。すなわち、そこから導かれる背景は、これは信仰によってつかんだ喜びであり、笑いであったということです。しかし、神は放ってはおかず、やがてペルシャのクロス王によって勅令がでて第二神殿が建築され、民は解放され、都のぼりの歌となるのです。 そして、そこまで至る過程にこの歴史を通して彼らが何を学んだのでしょうか。それが涙の祈りでした。悲しみがあったと証言しているのです。 罪の解決の場所を知った人は、人生が変わるのではないでしょうか。誰の心に川が流れたと思いますか。迫害者サウロ、後のパウロの心の中に川が流れたのです。神の御業はびっくり仰天する御業なのです。そしてもっと素晴らしいのは、涙を流して祈った者も束を携え、喜び叫びながら刈り取る。これが著者である主イエス様が約束される筋書きです。 ただ、目を閉じて祈る時、そこには、目を開けて見た世界よりも素晴らしい、比較にならないほど素晴らしい世界が広がっているのです。ただ一人、友と呼んでくださるお方に(ヨハネ15章15節)祈ることができるからです。パウロいわく、5回も鞭打たれても、神の子の真実の「中に」生きていると証言させていただけるのです。(ガラテヤ2章20節) 今日はまず目を閉じましょう。そこは主イエス様以外には何もない世界ですから。 |
|
|