「よみがえりの系譜」(ヨハネ20章19節〜23節) ( 4.9/2023 )
「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります』」(22節〜23節)

創世記2章7節「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」ここに人のいのちの創造を見ます。しかし、創世記3章6節に彼らが善悪の知識の木からその実を取って食べたことが記されており、続く8節には「それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」ここに堕罪の姿を見ます。そして、創世記6章3節「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。」もうここまで来ますと、ルカ15章32節の放蕩息子の描写「おまえの弟は死んでいたのに生き返り」という、神の目から見て死んでいる人類の姿を見るのです。

しかし、主イエス様が来られた時、マルコ9章23節「できるなら。と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と罪に苦しむ人類に対して(わたしを信じなさい。頼りなさい)と語ってくださったのです。そして、聖霊が働いてくださって信じる者たちの内にイエス様のみわざがなされて今日に至っています。使徒パウロいわく、「母の胎にあるときから私を選び出し」(ガラテヤ1章15節)、いや、「世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」(エペソ1章4節)という神の選びが主イエス様を通してなされてきたのです。ルカ6章12節によりますと祈って夜を明かして選ばれました。彼らはイエス様の愛の結実です。しかし、一番の大敵は高ぶりです。パウロは迫害者でしたが悔い改めてキリストのしもべとなり、ユダは悔い改め損ねてわずかの金を得て去ってしまいました(マタイ27章5節)。わたくしは、昔「あなたは救われた罪人に過ぎないんだよ」という言葉を先輩のクリスチャンからお聞きし、自分の高慢を教えていただき助けて頂きました。悔い改める場所(主イエス様の十字架)が必要です。そして語ってくれる方が必要です。そしてガラテヤ2章19節「わたしはキリストと共に十字架につけられました。」すなわち、マタイ11章28節「重荷」とは自分自身のことなのだと聖霊によって示され、主イエス様が罪のすべてを負って道ずれとなって死んでくださった。すなわち、私が死んだのだ。ゆえにキリストが新しく生きてくださっていると信じ受け取る必要があります。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)と。

聖書の最後、ヨハネの黙示録21章22節は主イエス様のことを子羊として描写しています。すなわち、主イエス様のお姿は私共の罪を負って十字架にかかってくださったままのお姿です。そして、16節「都は…長さも幅も高さも同じ」をムーディーは神の聖を表すと説教しているそうです。私たちにはそれぞれ試練が与えられます。しかし子羊にお会いする日が来ます。(十字架を避けることはお許しにならないだろう。でも、たとえ死ぬことがあっても、父はもっと素晴らしいことをなさることができる。生き返ることが必要ならばそうしてくださる)という信仰をもって祈りましょう(へブル5章7節)。そして聞き入れていただいて、息を吹きかけて頂きいのちの伝達者となってみことばを伝えましょう。十字架の主の息が内にいてくださらねば叶わぬことを日々見つつ。

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