「イエス・キリストを知ること」(2ペテロ2章20節) ( 5.7/2023 )
「主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。」(20節)

手紙の受け取り手はパウロが伝道した教会の人々であり、ペテロはパウロが殉教して不安に陥っている状態にある信徒たちを励ますためにこの手紙を書き送っています(2ペテロ3章16節)。福音は教会の伝統(聖書と信仰告白)の中に保存されていますが、その新約聖書の大部分を執筆したパウロは、この福音は使徒たちから聞いたものだと証言しています(1コリント15章3節)。その使徒として紹介されているペテロが「主であり救い主である方のご命令を思い出させるため」(2ペテロ3章2節)書いたのがこの第二の手紙であり、その前に書かれた第一の手紙です。すなわち主イエス様が弟子たちに教えられた内容をこの手紙を通して知ることができるのです。

この2章では偽教師が起こってしまい、12節にこの者たちは本能に支配されていて、捕えられ殺されるために生まれてきた、理性のない動物のような生活をしていました。22節に豚は身を洗って、また泥の中を転がるということわざのようだと言っています。でも、もし彼らが失敗に陥った原因に気づき正しい道を知ることができたなら、5節の洪水で裁かれた人々や6節のソドムとゴモラの不道徳な人々の道を歩まずにすむと思うのです。その失敗の原因とは1節の自分たちを買取ってくださった主を否定してしまったことです。

その解決の道は、15節、16節にはバラムは不義を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないロバが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのですとありますが、わたくし共にもチャンスは残されています。それは20節主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることです。それも、世の汚れから逃れることができるくらいに知る必要があります。もし、世の汚れから逃れることが出来ていないけれども、世の汚れから逃れるためにイエス・キリストを知りたいという方は関西聖書神学校に入学されたら良いかと思います。しかし、2024年の春まで待つのは大変ですので、

この著者のペテロは主のためには命を捨てますとルカ22章33節に語っております。けれども、サタンにふるいにかけられた時に(前述32節)、イエス様を三度知らないと言ってしまいます(前述57節、58節、60節)。けれどもルカ22章32節「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と約束された主イエス様の祈りによって(マタイ27章14節)彼は立ち直るのです。そして1ペテロ5章8節に彼自身が説明していますように悪魔という獅子にかまれていたペテロが「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」と彼が教えられたところを証しするのです。

すなわち、世の汚れから逃れることができるくらいに主を知ることとは彼の内にある力ではなかったということです。高ぶる理由となる才能は役に立たなかったのです。そして、信仰に堅く立って、この悪魔に対抗しなさい(1ペテロ5章9節)。と語るのです。さて、信仰はどういう歩みを彼に与えたのでしょうか。それはナザレのイエス・キリストの名による歩みです(使徒3章6節)。これは個人の力や敬虔さではありませんでした(使徒3章12節)。では何だったのでしょうか。使徒の働き2章38節から40節によりますと聖霊による歩みでした。

私たちが本当に主を知ることができたなら世の汚れから逃れることができます。そしてそれは御霊です(ヨハネ14章17節)。ミソは「世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません」です。しかしこのお方によるならば世の汚れから逃れることができるのです(2ペテロ2章20節)。世という悪魔か主イエス様か、どちらに打ち負かされ奴隷となるか日々生活の中で選択を迫られているということです。

「あなたは世も、世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」(1ヨハネ2章15節)

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