「神がとどまってくださる人」(1ヨハネ3章22節〜24節) ( 6.19/2023 )
「そして、求めるものは何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」(22節、23節)

この3章を読みまして印象に残ることは、主イエス様はもう一度来られるということ、神は正しく歩むことを要求されていること、神は互いに愛し合うことを求めておられるということです。
2節、キリストはヘロデ王のようにして現れることはありません。復活の主は手をわきを見なさいと言われました(ヨハネ20章27節)。このヨハネの手紙第一では自分を清くする(3章3節)すなわち、いくつかヨハネには示されていることがあったのです。それは4節から10節の罪の問題、11節から24節の互いに愛し合うという問題です。

どうしてこれらの問題が起こるのか、1節「御父を知らない」と6節「キリストを見たこともなく知ってもいません」が原因です。

けれども、8節「その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」

すなわち、16節「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。」愛というのはお金でも権力でも安定でもありませんでした。キリストの死でした。キリストは何も持っていませんでした。でも、隣人を赦して命を捨ててくださったのです。

文脈通り読んできますと、22節求めるものを何でも神からいただいた方は、すでに生きておられないことになります。言い換えますと、キリストによって悪魔のわざを打ち破っていただいた方はヘロデ王ではなくキリストに似ているということです。互いに愛し合うことは、主イエス様のようにののしられてもののしり返さないことです。まず、16節、自分のいのちを捨てる本当の愛をわからせていただきましょう。(互いに愛し合うことを求めるとき、自らの死も成就します。)神がとどまってくださる理由は互いの愛で(24節)、その原因は御子の十字架です(ルカ23章42節、43節)。もし伝道して十字架上の強盗と同じ告白をする方々を捜し出すことができれば、少し主イエス様の苦しみを軽くすることができるかもしれません。すなわち、私たちにも主を愛する場面が許されるかもしれません。

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