「人の子も例外ではない」(マルコ2章23〜28節) ( 5.15/2011 )
「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである。」(28節)

このテキストをイエスがご自分の権威によって安息日規定を破棄したというように捉える考え方もあるようです。しかし、イエスはご自分に権威を持たせて新しい教えをされたのではありません。28節には明らかに、「それだから」という接続詞が使われています。ですから人の子が安息日にもまた主なのであるとは、27節の安息日は人のためにあるのだという言葉に従属する形で語られています。イエスは安息日規定(律法)を支配する存在だと自らの立場を主張しているのではなく、イエスもまた人の子であり、イエスも同様に人として安息日よりも尊い存在であると語っているのです。

イエスが当時の社会で主張され、マルコが聞き取った教えは、人の尊さでした。今、わたくしたちは「それだから」と記してある接続詞を無理に「なぜならば」などの言葉に置き換えて、イエスを神格化しイエスによって初めて人は律法から救われると理解することは危険です。なぜならば、イエスはユダヤ教の教理やキリスト教の教理を知っている、又は受け入れているなど、そのような問題を完全に無視して、もし律法を知らなかったとしても人の尊さは損なわれないと語っているからです。
当時は律法を守れない民は「地の民」と呼ばれて差別されていました。今の教会においても、律法に照らして人が差別されることがあるとするならばイエスに叱られるでしょう。

教会は掟のゆえに集まる所ではなく、神を中心として互いに愛し合うために集う所です。人の尊厳に教会(律法)は従属し、イエスとわたくしたちもまた人の尊厳に従属しているのです。

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