「何もしないことは善か悪か」(マルコ3章1〜6節) ( 5.22/2011 )
「人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。」(4節)

イエスは安息日に手を患っている方を癒しました。安息日をどのように過ごすことが良いことなのか、当時は良い行いでも控えることが良いことであると考えられていたようです(命を守ることは許されていました)。けれどもイエスは、安息日に良い行為を控えることは、善でも中立でもなく悪であると教えました。
当時人々が安息日に何もしなかった理由を考えますと、それは神に対する信仰よりも、律法に違反しないための保身が理由であったことをイエスは指摘したのではないでしょうか?
この場合律法は間違った目的のために働いているのです。

現在、福島第一原発の原子炉が爆発して多量の放射線が空気中に放出し続けられていることを、幼い子ども達は理解できません。この子ども達を傍観することは善でしょうか、それとも悪でしょうか?何もしないことは悪であるとイエスは教えていると思うのです。人体は肺の中の肺胞で人体と空気が直接触れて交換作用をしています。肺胞の面積はわたくしたちの想像をはるかに超える広さであり、その小さな小さな肺胞で放射線に触れています。子どもの将来は大人に支配されています。

わたくしたちの保身は、子ども達のために確実に悪として作用しているのではないでしょうか?主イエスは確かに命を奪われました。けれども私たちに豊かな命を今も与えています。マスクの着用、空気清浄機設置、避難は、孤独や非難や不安を生むかもしれませんが子ども達にとっては善であり命なのです。

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