「ヤコブとエサウ」(創世記25章19〜34節) ( 5.26/2011 )
1〜6節 アブラハムの再婚相手と子孫たち
7〜11節 アブラハムの死と葬り ベエル・ラハイ・ロイとは、「私を見た、生きておられる方の井戸」
12〜18節 イシマエルの系図と子孫たち
19〜26節 イサクの系図、ヤコブとエサウの誕生のいきさつ
27〜28節 父母の偏愛
29〜34節 特権を奪ったヤコブ

この25章はアブラハムの再婚と死、そして彼の子たちの祝福が記されています。また、もう一つ大きな出来事はアブラハムの子、イサクの子であるヤコブが双子の兄エサウの長子の特権を奪ってしまったことが記されています。創世記の著者はこのことを、エサウは長子の特権を軽んじた(34節)と解説しています。一方、長子の特権を欲した人物がいました。それはヤコブですが、彼は後に父イサクの臨終に際して長子のための祝福の祈りをも奪い(27章)、さらに兄エサウとの再会の前に神と組打ちしてもものつがいをはずされます(32章)。自我の固まりのような人物でした。

新約聖書の記者たちの見解は、穏和であっても狡猾な、このヤコブに対して寛容です。それは、後に自分たちイスラエル民族の祖先となる方だからかもしれません。けれども、長子の特権を奪おうとするヤコブと奪われる兄のエサウ、どちらが神に喜ばれる者なのでしょうか?
この章は大きな問題を提起していると思います。すなわち、ヘブル人への手紙12章によりますとエサウは長子の特権を売ったために、彼は不品行で俗悪であったと説明されています。すなわち、長子の特権の祝福とは「天に登録されている長子たちの教会(ヘブル12章23節)」につながる思想であり、自分の来世の祝福を期待するキリスト者に延々と受け継がれています。ヘブル人への手紙12〜13章には「この地上には永遠の都はない・・・」と言っています。これは正しいのでしょうか?

ヘブル人への手紙はパウロ書簡が書かれた後、AD95年頃に書かれたと言われています。当時の信徒たちにはエルサレム神殿が70年に破壊され、その中で信仰を守る砦となった思想が「来たらんとする都」だったのではないでしょうか?現在、命を狙われる時代は終わり、命を守る戦いをしている時代に、なおも来たらんとする都を待ち望むのでしょうか?

以前、大変お世話になった方がお亡くなりになり、その訃報を受け、私が書いた手紙の最後に、ハレルヤ、と書いてしまいました(今はこのことを深く反省し、どのようにお詫びすればよいかと苦しんでおります)。それまで、重い病が癒されるようにと祈っていた私は、その方がやっとその大きな苦しみから解き放たれて、永遠の幸せの国に入ることが出来たと信じて出た言葉でした。けれども、それ以来、私の心の中に疑問を持つようになりました。(果たして御遺族にとって永遠の都は良い所なのだろうか)と。

この創世記25章に登場します兄エサウは狡猾な弟ヤコブに長子の特権を奪われます。長子の特権が仮に永遠の都であったとするならば、そのために「涙を流してそれを求めたが、悔い改めの機会を得なかった」(ヘブル12章17節)という酷な判断を神がなさるだろうか?神は死んだ方を分けられるのだろうか?また、永遠の都は本当に死後の世界にあるのだろうか?隣人から家族が召されて「天国に行けて良かった」なんて言われる酷い天国思想は問題ではないだろうかと今も悩んでおります。

エサウは弟に長子の権利を奪われましたが、奪われたエサウの方が幸せだったのではないかと思うのです。「きよめ」という言葉を何度か聞かれたことがあるのではないでしょうか。清潔どころか、聖潔とまで字が充てられることもありますが、その内容は自らの内の汚れを除かれることを意味しています。しかしこれは、自我が取り除かれるという利己的な教えではなく、隣人を真に愛し、配慮することを意味している教えなのではないでしょうか?永遠の都はここになければならないのです。

TOP