「自意識」(マルコによる福音書3章7〜12節) ( 6.5/2011 )
「イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。」(12節)

11節には「汚れた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。」と記されています。主イエスは神の子だから、多くの奇跡を行い病に苦しむ人をも救うことが出来たのだと考える方が多いのではないでしょうか。けれども、このところの主題は汚れた霊どもの態度ではなく、イエスの態度です。ここで二つの点について考えたいのです。第一点は、イエスは明らかに汚れた霊の存在を語っておられること、第二点はあなたこそ神の子、という霊どもの告白です。

第一点目の汚れた霊の存在ですが、汚れた霊は誰の内に働いたのでしょうか。病の人でしょうか。この場合はイエスに押し寄せてくる人々の内に働いていたように感じます。けれども、これを私たちの生活に持ってきますと、汚れた霊が働くのは他人ではなく、まさしく私たちの内側です。汚れた霊は私たちの内側を占領した後、周りの人を害するのです。
ある注解者が12節の「きびしく戒められた」という言葉に注目していました。すなわち、これは叱りつける言葉であり、汚れた霊に自分の名を呼ばせない、そういう力がイエスにあったのだと説明していました。汚れた霊はイエスの名を呼んで彼を治めようとするのですが、イエスは汚れた霊たちが彼の名を呼ぶのを許さないのです。
イエスはまず、彼自身の心の中で汚れた霊と対決されたのではないでしょうか。そしてその戦いには彼独特の所作があったのではないでしょうか。汚れた霊はイエスの心の中にも確かに力を振るおうと襲いかかった、けれども、彼は汚れた霊に対して厳しく叱りつけるほどの自覚(自意識)があった。そして、その自意識を支えたものが祈りだったのではないでしょうか。

次に神の子という告白ですが、汚れた霊を第三者に帰属させて告白させています。イエス自身が汚れた霊に対して毅然とした態度を取られた時、恐らくイエスの心の内には愛が満たされ、彼に出会う人々は「あなたは神の子」と告白せざるを得なかったのです。地位だけで威張り散らして、人を見下げる権威者とは全く違っていたのです。
まず自らの心の内をイエスに倣って汚れた霊から救いましょう。「イエス様〜」と祈ったら、そのうち清くなるのではありません。これは私たち個々人の問題なのです。この問題に取り組む時、周りの人々に愛を分かつ人に変われるのです。苦しみや不安、また欲望に支配される時、また疲れた時、ひとり有頂天になる時など、常に汚れた霊は働くでしょう。そして人格を奪おうとするでしょう。全てのことについて、まず心に内に働く力を見張り、毅然とした態度(祈り)をもって勝利し、愛に満たして頂きましょう。

イエスは御自身のことを人にあらわさないように(22節)、すなわち「神の子」と言って、もてはやさないように戒めました。イエスを別な場所に隔離し、格付けし、高い存在とすることが彼の願いでなかったということです。汚れた霊に支配させないために自分自身の内側で戦い祈ることは、特別な人の仕事ではなく全ての人の課題であるということではないでしょうか。そんな存在とされているなんて、驚きです。

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