『いのちのみことば』(マタイ13章1節〜9節) ( 6.16/2024 ) |
「別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは 三十倍になった。」(8節) 'Still other seed fell on good soil. It produced a crop 100 60 or 30 times more than what was planted. ' Matthew 13:8 序. 先日、神学校卒業して初任地の教会の姉妹が召された。自分が神の前に立つ時、その姉妹のように多くの魂を主に導いたと報告できるかと自分に問うた。今朝は種まきのたとえ。私の生涯に御言葉は実を結んでいるか、聖書は問うている。 1. 「種を蒔く者」の期待 ここに「種を蒔く者」とある。神さまのこと。私は天の父の期待を受けている。それに応えている畑だろうか?その結実を妨害するものが3つある。道端、岩、茨。 2.三つの妨害 第一は道端の心。偏見とも言えるかもしれない。福音をはねのけてしまう。皆、命は大事に思う。もし、聖書が命の種なら、それを捨てるのは命取り。しかし、多くの御言葉が見捨てられている。多くの人に。「復活?奇跡?天地創造?処女受胎?」。また、信徒でも期待がなく聖書に向かう時もある。説教に心閉ざす時もある。御言葉は命なので地に落とさないように受け取りたい。固い心も柔らかくするのは恵みの雨。 第二は、隠れた岩地。一見、素直。しかし、自我が隠れている。御言葉は剣。御言葉に刺されて、初めて、御言葉を受け入れることができる。使徒行伝のように。「岩のごとく固き心、砕くものはみ力のみ」(新聖歌232)。岩を砕いていただいた柔らかな心に御言葉は成長し、聖霊の実を結ぶ。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実」(ガラテヤ522)。「人間は年とともに角が取れて丸くなるわけではない。御言葉に聖霊が働いてくださり、日々砕かれなければ」。 第三は、茨、雑草。これも隠れているが、土に残っている苦い根。気づかぬうちに、エネルギーが別の物にそがれて、神への愛、御言葉への愛が希薄なものとなる。 朝起きて一番に思い浮かべることが、その人の心を占めているものだそう。朝起きて、神さまへの感謝が起きているだろうか?携帯をチェックする前に、テレビ・ラジオのスイッチを入れる前に、私を愛する神さまからの語りかけに耳を傾けているだろうか?一言でも、心をこめて神さまに祈り、一行でも、御言葉をいただいて胸に収め、主に与えられた一日を主により頼んで歩みたい。 3.一粒の麦、死ねば豊かに実を結ぶ 種は自分が死ななければ実を結ばない、と聖書は言う。神の恵みは私が幸せになるだけのためではない。神の愛、神の支配が世に満ちるために、私に預けられたもの。私のものは何一つない。私は神の恵みの管理人。自分のために命をとっておくと命はしぼんでいく。命は、使う時、神が豊かに増してくださる。そしてついに百倍の実にまで、神の恵みは広がっていく。 先日、高田の講壇に立った時、一人の青年が神の救いに与り、献身され、ご夫妻で命を注いで、この群れが成長され、会堂が建ち、またそれぞれの信徒の方から恵みが広がっている様子を見て、一人の救いの祝福の広がりは無限だと感じました。イエス様の死と命からこの実は始まっているのです。私たちも、イエス様の死と命に与る時、私自身が一粒の種となって、実を結ばせていただけるのです。共にイエス様の実を結び、神の国建設の一端を担わせていただこうではありませんか。 「涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る」(詩編126:5) (説教者;田代美雪牧師) |
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