「救いは主に」(ヨエル3章21節) ( 7.29/2024 )
「わたしは彼らの血の復讐をし、罰せずにはおかない。主はシオンに住む。」(21節)
'Egypt and Edom have spilled my people’s blood. Should I let them escape my judgment? No I will not.” The Lord lives in Zion! `(Joel 3:21)

周辺諸国が咎なき者の血を流したことを裁く主のみこころが記されているのがヨエル書3章ですが(3章19節)、咎なき者の血を流した者たちが悔い改めて聖霊を受けることになることが預言されているのもヨエル書です(2章28節、29節)。

1.主への報復(1節〜8節)

これは、ツロ、シドン、ペリシテの全地域が企てたものでした。けれども5節と6節にあります彼らの暴虐は彼らの頭上に返されることになっていると語られています。

2.周辺諸国への主からの招集(9節〜15節)

ヨシャファテの谷にて裁きの座に着いておられるお方に会うことになります。

3.エジプトとエドムの罪(16節〜21節)

19節によりますと、エジプトとエドムは荒れ果てた荒野となるとあります。復活された主イエス様に出会う前のサウロ(後のパウロ)も殺害の息を弾ませていた人でした。ピリピ3章5節から6節に記されています彼の経歴について、聖霊をうけた時に荒れ果てた荒野だと気づいたのではないでしょうか。

ペンテコステ以来、聖霊を受ける人々は主を十字架につけた罪を悔い改めてきました。神は血の復讐を罪人になされたのではなく、キリストの十字架の贖いを信じない罪人の人生になされているのです。そしてパウロ先生同様に私共も主イエス様の十字架の贖いを信じる信仰のゆえに、罰せられる側から罰せずにはおかないお方の側に入れられたのです。

主を信じないで歩んだ過去の歩みは罰せられるものであり、主イエス様の十字架の上にあります(イザヤ53章4節〜6節)。今は聖霊が私共にお住い下さるのです。自分の傷を見つめることによってでもなく、他者を責めることによってでもなく、悪魔に従うことによってでもなく、主イエス様の十字架を見上げることによって人は救われるのです。18節のぶどう酒、乳、水、泉は悪魔にではなく、主(神)にあります。主がお住まいくださっているところに帰りましょう。そして主の下にとどまりましょう。

七十人訳では、「わたしが罰せずにはおかなかった彼らの血の罪を赦す」となっているそうです。

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