『神のみわざが現れるため』(ヨハネ9章3節) ( 10.12/2024 )
「この人に神のわざが現れるためです」(3節)

'“It isn’t because this man sinned” said Jesus. “It isn’t because his parents sinned.
He was born blind so that God’s power could be shown by what’s going to happen.`
(John 9:3)

序. 収穫の秋となりました。霊的な信仰の実を結ぶ者とならせていただきたい。

1.神のみわざが現れるため

前の章で主イエスは、パリサイ人から敵意をもたれ、宮から出て行かれた。
しかし、イエス様の心には変わらない平安があった。主イエスは道端に座っていた生まれつき目の不自由な男の人をじっと見つめられた。

主の弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのはだれの罪か」と問うた。
私たちは知らない間に不用意な言葉で人を傷つける。言葉だけではない。自分で気づく罪は氷山の一角に過ぎない。下には恐ろしい罪の塊がある。しかし、自分は正しいと思っている。正しいことを通しているつもりでも無知のため、罪を犯す。これが霊的盲目。

人は「なぜこの禍が起こったか」と過去を問う。しかし、神の眼は将来に向けられる。「この苦難はこの人のうちに神の栄光が輝くためなのだ」と。
人は恐れのため、目が暗い。神の眼は明るい。

2.光りあるうちに

この盲目の人が癒される前に、主イエスは霊的盲目から救われるには時が迫っていることを告げられた。いつまでも、チャンスが待っているわけではない。光である主が近くおられるうちに、主イエスを信じ、いのちの光の中に入らなければ、やがて、心のまぶたが固くなり、ついに主を信じる機会を失う。「若い日に」(伝道者の書12:1)。
自分の乗っているボートがその先が滝になっていることを教えられたなら、急いで降りるに違いない。主を信じない者は滅びに至る、この警告は真実。二つの道のどちらかを選ばなければならない。早いうちに。

3.神の栄光が現れる

生まれつきの盲目の人の眼が開かれた!しかし、この真実の光は、光の世界と闇の世界を二分した。信じない者は益々心の闇を深くする。しかし、信じる者はさらに、霊の眼が開かれ、神の栄光を闇の中に輝かす。

目が開かれた者はついに信仰に至った。苦難から救うために神がいるのではない。神を信じるために苦難から救ってくださる。ここに至らなければ、また滅びに戻ってしまう。神のわざを見たなら、その主である方を信じて、主の永遠のいのちにつながることが、主のみわざ。

救われた者の証しは単純。議論は要らない。「神を知った!」「救われた!」「かつては私の心は暗かった。しかし、今、主の愛を知った!」これしか言うことがない。
 救いはイエス「について」知ることではない。主ご自身を知ること。
「知っている」と思わないで、「私の霊の眼をますます開いて、主イエスを知らせてください」と祈りましょう。イエス様は私の心に触れて分かるようにしてくださいます。 (説教者:田代美雪牧師)

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