「あなたの天の父は誰」(マタイ6章15節) ( 10.21/2024 )
「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(15節)

'But if you do not forgive the sins of other people your Father will not forgive your sins.`
(Matthew 6:15)

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1章18節)このマタイ6章は善行(1節)、施し(2節〜4節)、祈りと赦し(5節〜15節)、断食(16節〜18節)、宝(19節〜24節、信仰(25節〜34節)という内容になっております。その中でも、後半の信仰は思い煩いの対極に置かれていますので特に重要です。思い煩わない人間はいないからです。そして信仰の内容は当然天の父についてなのですが、32節33節には「あなたがたにこれらのものが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」とありまして、ひとり子の神である主イエス様に是非とも説き明かしていただきたいのはこの部分かなと思うのであります。そしてそれは既に6章に詳しく述べられているわけですので割愛させていただきます。すなわち、いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのであるところの内容をそのまま受け取りたいと思うのです。

1.あなたにとって天の父は誰か

日本人の多くの方々はご先祖様だと言われるでしょう。しかし、聖書が教える真の天の父は野の花や空の鳥を養ってくださっている神です。そしてその天の父なる神は「今日あって明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、このように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。」(30節31節)

2.私たちが天の父としている者は誰か

へブル12章4節から11節には、「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」とありますが、「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ6章15節)というみことばで私たちが心の奥底で天の父としている者が明らかにされます。すなわち、私たちは最初から天の父の子なのではないということです。ヨハネ8章43節44節には「あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。あなたがたは悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」すなわち、わたしたちの最初の姿は天の父を神としているのではなく、悪魔を天の父とし、悪魔の欲望を成し遂げたいと思っていたと描写されています。しかし、どうすれば私たちは隣人の過ちを赦せる人になれるのでしょうか。

3.十字架につけられたイエス・キリスト

(失礼な、私はまともな生き方をしています。)とおっしゃってくださる方のために、パウロという伝道者が救われた時の証しがガラテヤ3章1節に記されています。そこには「十字架につけれたイエス・キリストが、目の前に描き出された」とあります。すなわち、人類の中で最も律法に忠実な人物でも神の御前には汚れた者であったのですが、十字架につけられたイエス・キリストが目の前に描き出されて彼は初めて罪の赦しを知ったのです。そしてそれは行いによる救いではなく信仰による救いだったのです。

真の天の父を知る人生とは、神の裁きを身代わりとなって受けてくださった主イエス・キリストを信じ受け入れ、罪を悔い改めて、神に従い、神との交わりのある人生に意識的に踏み出すことから始まります。それを可能にするのは、御霊の御業とみことばの確証です。
「しかし、時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」(ガラテヤ4章4節〜6節)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5章24節25節)

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