「現実と事実のはざまにて」(ヨハネの黙示録16章15節) ( 11.5/2024 )
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである。」(15節)

'“Look! I am coming like a thief! Blessed is anyone who stays awake and keeps their clothes on. Then they will be ready. They will not be caught naked and so be put to shame.”`(Revelation 16:15)

この16章は、神の七人の御使いによって地が裁かれる様子が記されていますが、大きな禍にあっても悔い改めることのできない人々の姿が描かれています。ある有名な聖書学者は患難時代の聖霊が働かれない時代には人々は悔い改めることができないと記していました。そして、ここに不気味な言葉を発見しました。それは、「裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように」(黙示録16章15節)です。すなわち、罪の結果は新約聖書に説明されてありまして、それは放蕩息子(ルカ15章)のように父なる神との交わりの絶えた生活が死であることはよく知られていると思うのですが、ここで語られている裸には、歩き回る、恥ずかしい姿、そして人々に見られるという言葉で説明されているという点です。そこにあるのは、恥ずかしさを忘れた生活であり、人々に公に見られている罪であり、なんと、歩き回って平気で過ごしているということです。

しかし、御使いは語っています。「『今おられ、昔おられた聖なる方、あなたは正しい方です。このようなさばきを行われたからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。』また私は、祭壇がこういうのを聞いた。『しかり。主よ、全能者なる神よ。あなたのさばきは真実で正しいさばきです。』」(黙示録16章5節〜7節)

人間が戦っている放蕩息子のようなお金の問題、生きる糧の問題、家族の問題などは皆自分で考え対処できるもののように考えておられると思うのですが、これは父なる神との問題であり、神がすべての与え主であり、神ご自身が答えなのです。しかし悪魔はそれを分からないようにしています。私たちは豚が食べているいなご豆の味に慣らされてしまっているのです。そして裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られ、見せつけて歩むのです。どうして悪魔に抗えないのでしょうか、それは悪魔が自らを弱い存在のように偽装しているからです。(自分の欲望、家族、お金、健康の問題、なーに簡単だ勝利できる)と思い込まされ逆に悪魔に蹂躙されているのです。

悪魔に勝つすべはあるのでしょうか。自分の力、すなわち人間の力では敗北してしまいます。けれども2テモテ3章16節「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」毎日聖書を4章(旧約聖書3章、新約聖書1章)読んで、聖霊の助けを求めましょう。聖霊は生きておられる神様を証ししてくださいます。そして主イエス様の十字架の血潮と復活を信じてください。「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの聖霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」(へブル9章14節)創世記39章12節によれば誘惑からは逃げることが勝利の秘訣です。

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