神の平安(ピリピ4章1〜9節) ( 5.16/2010 )
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(6〜7節)

神の平安、Uコリント11章を読みます時に多くの試練を受けたパウロ、そしてローマ人への手紙の10章12節には、異邦人(ユダヤ人以外の人々)が救われることを願っているパウロですが、パウロは自分が伝えたこと(学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たこと)は実行しなさいと勧めることができる人物でした。信仰とはこういうものであると思うのです。すなわち、自分を幸せにするものではなく、他の人を幸せにすることのできる確かなものが信仰です。

パウロという人物は、ユダヤ教の指導的な立場にいた人物でしたが、使徒行伝(9章、22章、26章18節参照)によりますと、復活されたイエスとの出会いを通し、主イエスを伝える人生に変えられました。そしてその生涯に平安があったことを証ししています。

彼の戦いはユダヤ教の律法主義との戦いでした。そして外国伝道では偶像との戦いでした。私たちが伝えるべき神の福音は何でしょうか。それは「平安」がイエス・キリストによってもたらされることを伝えることではないでしょうか。すなわち、律法主義との戦いとは、排他主義からの脱却であり、偶像との戦いとは、神が人の手によるものの中にはお住まいにならないこと、恐れからの救いを伝えることではないでしょうか。

神の平安、それは神との平安なのです。親を愛し、子どもを愛しましょう。私たちの交わりの中に主イエスの救い、すなわち愛を求め、いただきましょう。先祖や偶像でなく、主イエスが私たち人類のすべての罪を十字架で負ったことで、すべての呪いをご自身の身に引き受け、私たちを神の裁きから救って下さいました。先祖の代わりに、先祖の救いのためにも、死んでよみがえり救い主となって下さったイエス・キリストを信じ、イエス様に祈り、赦しと愛と平安をいただきましょう。

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