「他者受容」(マルコ3章20〜35節) ( 7.3/2011 )
「良く言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。」(28節)

このマルコの記事は、主イエスの家族の記事が前後に配置され、ベルゼブル問題を挟む形になっています。おそらく、初代教会の指導的立場にいたイエスの弟ヤコブはじめイエスの家族に対する何らかの批判がマルコの心の中にあったと考えられます。

当時のユダヤ社会は社会と宗教が完全に分離していたとは言えず、宗教がローマ帝国の支配の道具のように使われていた時代でした。その中でイエスは「人間には一切が赦される」という発言をします。すなわち、律法違反行為や「神」に対する冒涜さえもが赦されると語ります。これは宗教による支配に対する徹底した反抗でした。

その中で、イエスが極めて珍しい言葉を語ります。それは、聖霊に対して冒涜する者は永遠に赦されることはないと言う言葉です。これは、オリゲネスという指導者の解説によりますとキリスト信者として洗礼を受けた者が信仰告白に対して犯す罪と言っていますが、これはキリスト教会の形成過程での産物かもしれません。それよりももっとこの文脈で強調されているのは、初代教会におけるイエスの家族の権威なり、政治と密着した支配体制が教会員を支配する力について、これは聖霊を冒涜している行為であると指摘したと考えるのが妥当でないかと思います。すなわち、マルコは神が望まれた教会は人を支配するものではなく、人に赦しを与え希望を与えるものであると伝えたのではないでしょうか。

イエスは悪霊の問題で悪霊の頭として嫌疑をかけられたとき、国が内輪で別れ争えば立ちゆくか、行かないか、という例話を語ったということですが、「別れ争えば」とはイエスの教えを受け入れた方の生活には変化があり、それが明確であったという意味だと思います。すなわち、支配、争いや特権でなく、すべての人が貴いことをイエスは教えたのではないでしょうか。壁を取り除くための意識改革(バリアフリー)を実行致しましょう。

TOP