「譬え話で終わらせないで」(マルコ 4章10〜13節) ( 8.1/2011 ) |
それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。(12節) キリスト教会は一般的に主イエスのご命令のゆえに、伝道活動をいたします。それはある面自分の主張が正しいと信じるから出来る行為ですが検討してみる必要があります。今日共に学ばせて頂くところには、主イエスの側にいる弟子たちやその他の人々に対して、どのような姿勢で生きて行ったらよいのかを教えています。 主イエスは最初、たとえ話を理解できない弟子や側にいる人々に、あなたがたには神の国の奥義が語られるが、彼ら(群衆)には譬えで語られると語ります。これは群衆について、(見ても認めず、聞いても悟らず悔い改めて救われることがないことを)指摘しつつ、本当は弟子たちに対してこの問題を問うています。なぜなら、13節に、弟子や側にいる人々に対して、この譬えが解らないなら、すべての譬えもわかるはずがないと説いておられるからです。 弟子たちと群衆との違いはイエスとの距離です。けれども、どんなに近くで生活していても主イエスを見ても認めず聞いても悟らず彼の思いを譬え話程度に聞いてしまったなら、決して神の国の奥義を知っているとは言えないのです。神の国の奥義とは、見て認め、聞いて悟り、悔い改めてゆるされる良い志と命です。他宗教の方が認め、悟り、ゆるされて生活しておられる時、クリスチャンお互いもその方々に大いに学ばなければなりません。イエスの名を借りて教えるのでなく、主イエスの真剣な期待に励まされ、神の赦しと命を信じ新しい力を頂いて、神を認め神に聞く生活を始めてみましょう。 |
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