「神の国」(マルコ4章30〜32節) ( 8.22/2011 )
「それは、一粒のからし種のようなものである」(31節)

主イエスの周りには、おそらく小さな光を見た人々が集まっていたと思います。ある弟子は短気で、町ごと燃やしてしまいましょうか、(ルカ9:54)という過激な発言をしています。これは普通は欠点に属する性格だと思うのですが、主イエスは彼らを拒みませんでした。そしてやがて弟子たちの性格は変わっていきました。

奇跡が起こらない時、主イエスの集団はやがて孤独な弟子集団と化していきました。けれどもイエスが証ししたのは、組織の大きさではなく別な価値観でした。死別の苦しみのある人と共に悲しむ、そういう神の国を証ししました(ルカ7:13)。おそらくイエスの知っていた神の国はわたくしたちが憧れてしまう派手な世界ではなかったのです。悲しみや苦しみのある現実の中や、耐えられない問題の中で、その問題を共有し隣人を励まされたのがイエスであったのではないでしょうか。

おそらく小さな小さなからし種のようなもの、すなわち、希望でなく問題の中にもイエスは神の国を認めていました。私たちの心はどうでしょうか?否定や排除からはじめることをしないで、難しい問題にも神の御旨がそこにあることを信じはじめる時、神の国が生まれるのです。そして大きく成長してやがて他の人が憩いを得るために近づきたくなるような愛の国にまで成長するのです。神にお任せするから神の国と呼ばれたのかもしれません。

TOP