「信仰は弱くても」(マルコによる4章35〜41節) ( 9.4/2011 )
「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」(40節)

当時キリスト教が社会的に認められるにつれて教会が神を伝えることのない単に博愛主義の交わりになりつつあったためマルコはイエスが行った奇跡とその奇跡に対する弟子たちの反応を記したのではないかと思います。真の信仰には神に結びつく悔い改めと信仰告白が伴います。嵐は信仰を失わせるものにもなりえますし、信仰を得る機会にもなります。

この弟子たちの体験した嵐を、神の存在を忘れさせるものと仮定しますと私たちは日常これを経験しております。しかし主イエスにとってこの嵐は当然起こりうることであったようです(イエスは嵐の中で眠っていたとあります)。外の変化する事象によって心の内面が塗り替えられてしまう、または塗り替えられてしまったということがあると思いますが新約聖書の使徒行伝19章には聖霊というテーマでこの理由が語られています。そこには悪霊がイエスやパウロは知っているけれどもあなたは何者か、と問う場面があります。そしてイエスの名を借りて悪霊を追い出そうとした人が、悪霊に憑かれた人に襲われ、このことを通して魔術を使う人をはじめ多くの信徒が自分の行ってきたことを告白し決別しました。(光を見た)

単に生活船の船長にイエスをお迎えして彼と共に波を乗り越えるというのでは簡単に波に呑まれるでしょう、なぜなら、イエスは悪霊に知られていても(使徒19:15)私たちは知られていないからです。すなわち、40節によりますと、水が満ちそうになった時、主イエスが驚いたのは弟子たちの姿だったそうです。波で積み荷も体もびしょびしょでも、イエスは神による希望を知っていました。

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