「今どこに居るか知るために」(マルコ5章25〜34節 ( 10.2/2011 )
「しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。」(32節)

自己認識の変革は簡単ではないと感じます。嫌な自分でもそのままの姿で居続けたいと心のどこかで願っているのかもしれません。今日お読み頂きました聖書の中に登場します女性は、病が癒されたことを感じつつ、主イエスに強いて勧められなければそのことを公に言い表さずに過ごしてしまったと思います。けれども、主イエスは彼女に、過去と決別し新しい生き方に進むようにとお教えくださいました。

彼女の病(または心の闇)は服で覆われて見えないものだったと思います。彼女にとっては、その変化を言い表す必要はなかったと思います。けれども、もし言い表さなかったとしたら(神の関与を否定したら)、長年慣れ親しんだ病気の状態の生活を繰り返してしまっただろうと思うのです。

ここで神の関与に対抗しているのは弟子達です。イエスの弟子達はイエスと民衆の間に立って人々へのイエスの関与を評価しようとしています。すなわち、誰がいやされたかなど分かるはずはありません、と。同様に変わることを恐れさせる力がわたくしたちの生活の中に働いています。けれども、どんなに弟子達が無理だと主張しても、主イエスご自身が癒された人を捜してくださいました、これがマルコの主張です。

1549年にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、以後60年間に信者が約50万人になるほどキリスト教は人々に受け入れられました。けれども豊臣秀吉は1587年7月27日にキリスト教禁止令を発布しました。このことをロバート・リーは、秀吉は「社会を崩壊せしめる危険な教義」と理解したから、と解説しています。世俗の支配者への忠誠心(悪い意味においても)が私たちの人生を縛って当然という日本の社会的思想は既に約460年前に一度問われました。そしてその当時の多くの人々はキリスト教が伝えた「唯一の神が存在し、このお方が倫理的原則を支配する」という主張を受け入れました。

主イエスは癒された人を捜されました。すなわち、神が新しい光で私たちを見ていてくださるということです。指導者ではない、神によって現実は変えられていくのです。弟子達の目を恐れないで、今日も神にお会いしましょう。神が光の中に入れてくださっているのですから。

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