「郷里伝道」(マルコ6章1〜6節) ( 10.24/2011 )
「この人はこれらのことをどこで習ってきたのか。」(2節)

マタイ13章、ルカ4章に並行記事がありますが主イエスの生涯を書き残したマルコの目に、主イエスをいぶかしく思っている人々が映っておりその中に主イエスの家族がいます。そして、彼の故郷の人々もまたそうでした。彼らに共通するのは主イエスを知っているという自負心でしょう。けれども、この人々に対しては大きなわざが出来なかったという結論に至っています。
信仰とは主イエスに対する知識の量ではなく信頼であり、主イエスの勧めに従った結果、神と共に働くことを選択することではないでしょうか。すなわち神と心をひとつにする態度が信仰なのではないでしょうか?

確かに主イエスの家族は最後まで主イエスを目で見ていたのかもしれません。彼の兄弟ヤコブは後にエルサレムのキリスト教会の指導者となります。しかし彼が結局今日まで証ししているのは、ユダヤ主義への回帰です(使徒行伝21章18節〜)。けれども主イエスが教えたかったのは神の御心であり、それは神を信じることが出来ない人々を神が愛しておられるということだったのではないでしょうか?

神の御心を考える時間を持ち自分の他に神を認めましょう。そして神とのコラボレーション(共同、共働)を確認しましょう。隣人のために労するために教会も心をひとつにしましょう。トルストイのいう作家はその作品の中で手を見ています。手を隣人のために用いましょう。イワンの妻になった王妃は彼に倣って農作業に従事し、「糸は針に従うでしょう」と言いました。神の導かれるところにおらせて頂くことが幸せなのではではないでしょうか?この教会も全国の教会の愛によって保たれています。私たちもこの地域を愛し隣人のために喜んで働きましょう。

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