「神の光の力」(マルコ6章14〜29節) ( 11.13/2011 )
ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。(16節)

紀元前4年から紀元29年までガリラヤの歴史に登場していますヘロデ王には、明らかに神の前に後ろめたい生活がありました。そしてそれを指摘したのがヨハネであり、主イエスはそのヨハネの生き返りではないかと恐れられました。権力は恐れを取り除けませんでした。

ヘロデ王はローマ帝国からガリラヤとペレヤの統治を委任されていましたが、その力を誇示するために、あるお酒の席で国の半分をかけて誓いをしてしまいます。一方ヨハネが持っていたものは神の光だけでした。ヘロデ王とヨハネでは持っている社会的な力は比較になりませんでした。そしてヘロデ王にとって神の光に従うことは恐らく非常に困難に思えたようです。そしてその為にヘロデ王はヨハネの首を切り落としてしまいました。それによってヘロデ王は道が開かれたと思ったかもしれません。しかし、ヘロデ王が知ったこと、それはヨハネが死んでも神の光は再び灯るということでした。国の都合、行政の都合、親の都合で振り回されても隣人を生かそうとする神の愛の導きは途絶えないのです。

たとえ、恐れ続けてしまっても神の光(愛)はいつまでも変わらず、神の側からこちらに近づき続けてくださるはずです(ルカ5章8節)。ヨハネは死んでしまいましたが主イエスの生活が変えられました(マルコ1章14節)。死が命を産みました。イエスの死も私たちにとって絶えることのない泉です。ヘロデ性もイエスに変えて頂きましょう。

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